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司法書士 田口司法事務所 スタッフブログ

 

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1日1本

No.163  平成29年8月28日(月)

 

このところすっかり映画にはまってしまい、1日1本を目安に観て

います。といっても、手にする初見の映画と馴染みの映画の比率は

2:8といったところで、結局、馴染みの映画を繰り返し観ている

だけのような気もしますが・・・。

今回は、最近観た中から、何度観てもいいなあと思う映画を紹介し

ます。

 

『スティング』。

鮮やかな逆転劇。大どんでん返し。内容に触れてしまうとせっかく

の仕掛けが台無しになってしまうので、まだご覧になられていない

方はぜひ見事に騙されてください。

なので、今回取り上げるのは衣装。私の大好きな『ローマの休日』

でも衣装を担当したイーディス・ヘッドが担当しています。『ロー
の休日』ではアン王女の可憐な雰囲気を演出していましたが、本
では伊達男のスーツファッションを堪能させてくれます。それに
ても、若かりし頃のロバート・レッドフォードは、(全盛期の?)
ラッド・ピッドそっくりだなあ。

 

『セント・オブ・ウーマン』。

盲目の偏屈な退役軍人フランク中佐を演じるアル・パチーノの迫力

に圧倒される作品です。

帰省の費用を稼ぐため、苦学生チャーリーがすることとなったアル

バイトは、中佐の姪一家が家族旅行に出掛けている間、中佐の身の

回りの世話をするというもの。

レストランで出会った若い女性とタンゴを踊るシーンや、チャーリ

ーの必死の説得で自殺を思いとどまるシーンなど、徹頭徹尾アル・

パチーノの熱演に引き込まれますが、物語としては、最後、中佐が

チャーリーを救うために一席打つという、いかにもアメリカ的な結

末によって尻すぼみになってしまうのがとても残念。ただし、この

演説シーンにおけるアル・パチーノもやはり凄いので、一見の価値
りです。

 

『ノッティングヒルの恋人』。

ジュリア・ロバーツ扮するスター女優アナ・スコットと、ヒュー・

グラント扮する流行らない書店の経営者ウィリアム・タッカー。映

画撮影のためロンドンの平凡な街ノッティングヒルに滞在していた

アナが、偶然ウィリアムの書店を訪れたことから始まるラブストー

リーです。

立場の違うふたりの恋愛という設定は、まさしく『ローマの休日』

(何度も取り上げてすみません)と同じ設定です。恋に落ちるのが

唐突すぎるなどツッコミどころは多々ありますが、そもそもスター

女優と一般男性が恋に落ちるという夢物語ですから、細かい理屈は

抜きでいきましょう。

「私だってひとりの女性。目の前の人に愛されることを願っている」

というアナの告白は、何度観てもウルッときます(言われてみたい

ものだ)。

そして最後の記者会見。『ローマの休日』へのオマージュとして、
れ以上素敵な結末は考えられません。

 

さて、皆さんのお気に入りの映画は何ですか。

 

 

今朝のお供、

桑田佳祐の『がらくた』。

がらくたという名の15の宝物。

                       (佐々木 大輔)

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村上春樹の物語とメタファー

No.162  平成29年7月24日(月)

 

―村上春樹とは、読む度、好きと思ったり嫌いと思ったり、アンビ

バレント(愛憎こもごも)な感情を抱く存在である―

 

今年2月に発表された村上氏の『騎士団長殺し』を読む準備運動と

して、村上氏の初期作品『風の歌を聴け』、『1973年のピンボ
ル』、『羊をめぐる冒険』(以上、青春三部作)を再読しました。
村上氏の作品は、大学生の頃に初めて読んで以来、折に触れて読み
返しています。

 

今回の再読で最も考えさせられたのは、青春三部作の中では人気も

世評も控えめな『ピンボール』。「僕」と双子の姉妹との日常、そ
てデビュー作『風の歌』から続く「鼠」との友情を描いた作品で
す。
双子の姉妹がどこからかやってきて、どこかへといなくなって
しま
ったように、「僕」は物事に執着することなく、ただ事実を受
け流し
ます。一方、「鼠」は街を出ていくことを決意します。

「鼠」は「僕」の分身であり、社会にコミットメント(関与)出来
ないでいる「僕」
が生み出した「僕のあるべき姿」ではないか、と
私は考えます。

一般的に村上作品の登場人物は、物事にかかわりをもたず無関
心で
あること(デタッチメント)を特徴とし、それが人間関係や社
会に
縛られたくないと思っている人々の共感を呼んでいるところも
ある
かと思うのですが、私が、「僕」は社会にコミット「しない」の

はなく「出来ない」のだと感じるのは、本作における「鼠」の決

に至る葛藤が、失うことを恐れて決断出来ない「僕」の葛藤とし

映るからです。「僕」自身、変わらなければならないことを分かっ
ているんじゃないのかな。

 

実際、村上作品は、『ねじまき鳥クロニクル』で「デタッチメント
らコミットメントへの転換」があり、その姿勢は、地下鉄サリン
件を扱ったノンフィクション『アンダーグラウンド』、阪神大震
災を
契機とした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に顕著で
す。

 

このような過去の作品とのつながりも考えながら、いよいよ最新作

『騎士団長殺し』に突入。

果たして村上氏が本作で紡いだ物語は魅力的であったでしょうか。

残念ながら私は楽しめませんでした。それゆえ「私の好まない村
春樹」ばかりが目に付いてしまったようです。

謎の美少女、(井戸のような)穴と壁、都合のいい女性、お酒と
理と音楽・・・いつものレギュラーメンバー。
私の方が「やれや
れ」と言いたい。

これらの「メタファー」を読み解くことが村上作品を読む楽しみで

あることは理解できます。しかし、その謎解きを楽しめるほど夢中

になれなくなったのは、私が社会にコミットする立場にあり、(デ
ッチメントを脱したとはいえ)社会性の乏しい登場人物らに共感
きなくなってしまったからかもしれません。

 

とはいえ、以上はあくまでも「物語」についての感想。

本作を通じて村上氏は何を語りたかったのか。

これについては私なりに感じるところがあり、深く考えさせられた

ことも事実。だからこそ、冒頭のアンビバレントな感情を抱きつつ、

村上氏の作品から目が離せないのです。

 

 

今朝のお供、

ショルティ指揮ウィーン・フィルの演奏によるR.シュトラウスのオ

ペラ『ばらの騎士』。

                       (佐々木 大輔)

ロックTシャツ愛

No.161  平成29年5月22日(月)

 

ロックTシャツ。

ロックバンドのロゴやメンバー写真、アルバムジャケットなどがデ

ザインされたTシャツです。

最近は街なかでも普段着としてロックTシャツをおしゃれに着こな

す若者を見かけるようになり、ロックのすそ野も広がったものだな

あと嬉しく思っていたのですが、事はそう単純でもないようです。

 

以前あるバラエティ番組で、ロックTシャツを着ている人にそのバ

ンドの代表曲のイントロを聞かせて曲名を答えられるか検証すると

いう企画を放送していましたが、検証結果はなんと9割以上の人が

答えられないというもの。そればかりか、中には着ているTシャツ

のバンド名さえ知らない人もいたという衝撃的な結果!

 

確かに今では通販でも幅広く手に入りますし、バンドの音楽よりも

デザインに惹かれてTシャツを購入したという人がいてもおかしく

ありません。

 

私がロックに夢中だった中学時代は、好きなバンドのTシャツを欲

しいと思っても情報すらほとんどなく、雑誌の片隅に小さく載って

いた取扱い業者―多くが新宿のマンションの一室で商売をしていま

した―に電話をかけて注文したり、雑誌の懸賞に応募したりしてい

たことを懐かしく思い出します。

いずれにしても選べるほどの種類はなく、各デザインにつきサイズ

もワンサイズ。明らかにオーバーサイズな海外サイズのLを購入せ

ざるを得ないことも度々で、実際着てみるとやっぱりぶかぶか。

悲しいかなロック感よりもヒップホップ感の方が強かった・・・。

それでも手に入れられたことが嬉しくて、学生服の中に着て通学し

ていました―本当は校則違反だったのかもしれませんが―。

 

その頃の思い出が詰まったTシャツは、さすがに現役ではありませ

んが、今でも大切に保管してあります。

 

そんなノスタルジックな思いもあり、私はロックTシャツにひとか

たならぬこだわりがあります。

それは「好きなバンドのTシャツしか着ないこと」。

デザインがおしゃれだ、可愛いなどといった生ぬるい理由で、音を

聴いたこともないバンドのTシャツを着ることはありません。

もっと言えば、ベストアルバム(ヒット曲だけを収録したもの)を
持っている程度のバンドのTシャ
ツも着ません。

そもそも、ロックTシャツがおしゃれだと思ったこともありません。

むしろ、「このダサいデザインのTシャツを身に着けられるほど、
前はこのバンドを愛しているのか」と挑まれている気がして、そ
のバンドに忠誠を誓うがごとき熱い気持ちで袖を通しているのです。

 

そんな訳で、昔は若気の至りもあり他人にも自分の価値観を押し付

けがちで、聴いたこともないバンドのTシャツを着ている人に対し

て否定的でした。

最近は少し丸くなったのか、音楽を知らずに着ている人たちにも、

ロックTシャツをきっかけにそのバンドの音楽を聴いてもらえたら

いいな、そして本当にそのバンドのファンになってもらえたらいい

なと思っています。

 

 

今朝のお供、

AC/DC(オーストラリアのバンド)の『Let There Be Rock』。

 

(佐々木 大輔)

私の好きな曲「K.595」

No.160  平成29年4月24日(月)

 

2月の当ブログで、<恩田陸の小説と出会う>などという大仰なタ

イトルで採りあげました恩田陸著『蜜蜂と遠雷』が、先日、第14

回本屋大賞を受賞し、直木賞とのW受賞となったことがニュースに

なっていました。そしてニュースを見るまでは意識をしていなかっ

たのですが、そのあとに続けて読んだ恩田氏の『夜のピクニック』

も、第2回本屋大賞受賞作だったことに不思議な縁を感じたもので

す。

 

件の『蜜蜂と遠雷』は音楽を題材とした小説だったので、今回のブ

ログは私の好きな音楽について・・・というのは少々強引ですが、

お付き合いください。

 

モーツァルトのピアノ協奏曲第27番(K.595)。

私はこの曲が大好きで、春になると聴きたくなります。第3楽章の

主題が、同じ年に作曲されたモーツァルト自身の歌曲「春への憧れ」

に転用されているからかもしれません。

モーツァルト晩年の傑作のひとつで、完成したのは亡くなった年の

初頭。モーツァルト自身、もう長くはないことを悟り、再び春を愛

でることはできないかもしれないという諦念がにじむ一曲です。そ

れゆえ、モーツァルトらしい華やかさよりも、静謐な佇まいを感じ

ます。

 

バレンボイムのピアノ(と指揮)とイギリス室内管弦楽団による演

奏は、私が10代の頃から愛聴しているもので、CDとレコード盤

の両方で所有しているのですが、最近はレコード盤の方で聴くこと

が多くなりました。50年も前の録音で、さすがに録音の古さを感

じるものの―レコード盤で聴く限りそれも味わいとなりますが―オ

ーケストラの前奏に続き、コクのある色の濃いピアノが入ってくる

と一気に華やぎます。

この曲は華やかさよりも・・・と書いたことと矛盾しているようで

すが、若き日のバレンボイムは音そのものにきらめきがあるからで

しょう、咲きこぼれる花のような明るさがあります。しかしその明

るさがかえって寂寥感を際立たせているのも事実。緩徐楽章に聴
ロマンティックな呟き、胸が締め付けられるようなピアニシモの

め息。そのすべてにモーツァルトの微笑みと背中合わせの孤独を

じます。

 

バレンボイム盤と同様、10代の頃からの愛聴盤に、バックハウス

のピアノとベーム指揮ウィーン・フィルのコンビによる演奏があり

ます。こちらはなんと60年以上も前の録音で、バレンボイム盤よ

りもさらに古い録音ですが、鑑賞には全く問題がありません。硬質

で引き締まったピアノの音は澄み切った青空を見上げるようでもあ

り、枯淡の境地に達した演奏は、余白を生かした水墨画を観るか
ようでもあります。

 

古今東西、良い演奏があるという評判や噂を聞けば、今回紹介した

愛聴盤以外もいろいろとチェックをし、その中にはお気に入りの演

奏もあるのですが、最終的には、この曲の魅力を最初に教えてくれ

た愛聴盤に気持ちが戻るようです。

 

 

今朝のお供、

MUSE(イギリスのバンド)の『Black Hole and Revelations』。

 

(佐々木 大輔)

モネと光

No.159  平成29年3月21日(火)

 

秋田市にも少しずつ春が近づいてきたようです。春の陽気に誘われ

るように、先日モネの絵画を見たくなり、手持ちの画集をいろいろ

ひっくり返し、モネの作品を探しました。

 

クロード・モネ。私が説明するまでもありませんが、印象派を代表

する画家です。

「印象派」という言葉自体が生まれたのも、のちに「印象派」と呼

ばれることとなる画家たちが開いた「第1回印象派展」―この時点

では「印象派」という言葉はまだなく、「画家彫刻家版画家協会展」

という展覧会だったそうですが―をたまたま見たある評論家が、出

品されたモネの『印象―日の出』を引き合いに、「印象のままに描
た落書き」として展覧会自体を酷評したことがきっかけと言われ
います。

この酷評がかえって周囲の耳目を集め、「印象派」という言葉が広
知られるようになりました。しかし当の評論家も、この嘲りを含
だ悪名が、その後これほどまでに重要な意味を持つ存在になると
想像もしていなかったでしょうけれど。

 

一方で、モネらもこの酷評を逆手に取り、自分たちは「印象こそを

大切にして描いているのだ」として、自ら積極的に「印象派」を名

乗ったといういきさつもあります。

 

それにしても、モネほど光を追い求め、作品に投影した画家はいな

いのではないでしょうか。

モネが戸外にイーゼルを立て、自然に身を置き風景を描いていたこ

とはあまねく知られた事実ではありますが―持ち運び可能なチュー

ブ入り絵の具の発明が後押しした側面もあるでしょう―、これは画

期的なことで、当時は風景画も記憶やスケッチを頼りにアトリエで

描かれるのが当たり前でした。

 

あふれるような光と自然に対する賛美を描いた作品を見ると、よく

評されるように、実際にモネの制作現場に立ち会っているような気

持ちに満たされます。

太陽の光の下で描かれたモネの作品は、長い冬を超え、暖かな日差

しに焦がれる秋田の春に、喜びを重ねてくれます。

 

 

今朝のお供、

エド・シーラン(イギリスのミュージシャン)の『÷(divide)』。

流行の音であろうと、何であれ、良いものは良いのです。

                       (佐々木 大輔)

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