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司法書士 田口司法事務所 スタッフブログ

 

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死神の精度

No.138  平成27年6月8日(月)

 

―俺が仕事をすると、いつも降るんだ―

 

そろそろ梅雨の時期ですね。雨の季節になると思いだす言葉、伊坂

幸太郎の短編集『死神の精度』の文庫版に書かれたキャッチコピー

です。

 

小説の主人公である千葉は、クールな死神。

死神界の「調査員」である千葉の仕事は、定期的に人間界に派遣さ

れ、ターゲットとなっている人間を7日間観察し、その生死を決定

するというもの。そして千葉が仕事をする時、いつも雨が降ってい

ます。

 

登場する死神は、千葉に限らず、皆システマチックに仕事をこなし、

情に流されることもないので、ほとんど例外なく「可」、すなわち
ーゲットについて「死」の判断を下すこととなります。

 

千葉は人間界の常識や価値観に疎く、話す内容もちょっとずれてい

て、人間との会話が微妙にかみ合いません。

そればかりか千葉は、(人間にとっては)気取ったセリフも大真面
で口にしますが、死神が発する言葉と思えば不思議と嫌味もこそ
ゆさもありません。むしろ、ちょっと可笑しいくらい。

そんな千葉が、仕事のためとはいえ、あるときは名探偵さながらに

殺人事件の推理を展開し(「吹雪に死神」)、そうかと思えばター
ゲッ
トの恋愛相談にも応じ(「恋愛で死神」)、さらには美容院を
ひとりで営む老女
の奇妙なお願いまでも聞き入れます(「死神対老
女」)。

 

本作品は連作短編集であり、収められた各短編はそれぞれ関連して

います(どのように関連しているかは、読んでからのお楽しみ)。

素敵な場面はたくさんありますが、私が最もお気に入りなのは、
「晴
れを見た例しがない」千葉が、初めて晴天を望んだとき、隣に
並ん
で眩しそうにするターゲットの顔を見て、「人間というのは、
眩しい
時と笑う時に、似た表情になるんだな」とつぶやく場面。そ
れに対
して、「眩しいのと、嬉しいのと。(言われてみれば、意味
合いも)
似てるかも」と応じるターゲット。

全編雨雲が垂れ込めた世界に差し込んだ爽やかな光には、希望が宿

り、胸が躍ります。

 

 

今朝のお供、

Creedence Clearwater RevivalCCR。アメリカのバンド)の曲

「雨を見たかい」。
 

(佐々木 大輔)

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シベリウス

No.137  平成27年5月11日(月)

 

今年はフィンランドの作曲家シベリウスの生誕150周年。

そこで今回は、私が特に好むシベリウスの曲を2曲紹介します。

 

最初に紹介するのは交響曲第5番。

7曲あるシベリウスの(番号付き)交響曲の中で、最もポピュラー

なのは第2番かと思いますが(もちろん私も大好きです)、私が今
も惹かれるのは第5番の交響曲です。

とてもユニークな構成で、特に最終楽章の終結部は、初めて演奏会

で聴いたとしたら、どのタイミングで拍手をすればいいのか分から

ないような、ベートーヴェンもびっくりの終わり方です。

私の愛聴盤は、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団によ

る演奏。大胆な強弱や緩急をつけて趣向を凝らした演奏は、シベリ

ウスというよりは、ラトルの才気を強く感じさせるものですが、キ

レのあるリズムや見通しのよい音づくりにより、陽光はきらめき、

若草は爽やかに香ります。

件の終結部は輝かしく、数ある同曲異演の中でも説得力は群を抜い

ているように思われます。

 

次はヴァイオリン協奏曲を。

開放的な第5交響曲に対し、北欧の冷たい空気を思わせる張りつめ

た緊張感と洗練されたリリシズムが魅力的な曲です。

私はこの曲を、高校生の時に買ったアンネ=ゾフィー・ムターの演

奏によって知ったものですから、ムターの演奏が私にとっての原体

験となっています。

とはいえ、その後いろいろな演奏を聴くにおよび、ムターの演奏は

(名演であることに疑いの余地はありませんが)この曲本来の姿か

らすれば、かなり異端な演奏ではないだろうかと感じるようになり

ました。

むせ返るほど濃厚なこの演奏に対して、「これはシベリウスではな

い」と拒否反応を示す方もいるでしょう。

 

最近、もう少し繊細なヴァイオリンを聴きたいときは、クリスチャ

ン・フェラスのレコードに針を落とすことにしています(共演はカ

ラヤン指揮ベルリン・フィル)。

ほの暗い色気を湛え、死のにおいもそこはかとなく漂うフェラスの

演奏。惜しむらくは、オーケストラが重すぎること。

しかし、フェラスの繊細なヴァイオリンを、風に折れそうになりな

がら必死に耐え忍ぶ一輪の花と聴けば、それはそれで素敵な演奏な

のかもしれません。

 

好きな曲を気分に応じて何種類かの演奏で楽しむ。

世間の評価は別として、自分にとっての名演を探す。

それは音楽のもっとも美味しい楽しみ方(と私は思います)であり、

禁断の果実でもあります。

この味を知ってしまった以上、もう、後戻りはできません。

その代償として、同曲異演のCDやレコードが際限なくたまります。

 

 

今朝のお供、

METALLICA(アメリカのバンド)の『Master of Puppets』。

(佐々木 大輔)

みそひともじ

No.136  平成27年4月6日(月)

 

三十一文字。みそひともじ。

制約の中で世界を表現する。

私自身は短歌を詠みませんが、祖母が日常生活や孫たちの成長を折

に触れて詠んでいましたので(今でも現役で詠んでいます)、幼い
ろから短歌をわりと身近に感じてきました。

 

私が好きな春の歌のひとつに、俵万智氏の作品で、

「ふうわりと並んで歩く春の道 誰からもみられたいような午後」

という歌があります。

穏やかな春の日差しの中、幸せに包まれたカップルの誇らしげな気

持ちが伝わってくる良い歌ですね。

このふたりは付き合いはじめてまだ日が浅いのかな。世界中に愛を

叫ぶような力強さではなく、誇らしさの中にほんのりとした気恥ず

かしさも包含されているように感じられます。

 

この歌が完成形として歌集に収められるまでには、当たり前ですが、

何度も手直しを行ったと俵氏もその著書『短歌をよむ』で解説して

います。

初稿の上の句は「ふうわりとふたり並んで歩く道」だったそうです

が、なんとしても春の気分を表したくて、上の句を「ふうわりと並

んで歩く春の道」と直したところ、初稿の「ふうわり」「ふたり」
「ふ」の響きあいも捨てきれず、「ふうわりとふたりで歩く春の
道」
へと再修正。しかし、「ふたりで」と説明するよりも、「並ん
で」と
いう言葉から「ふたり」を想像する方が素敵であると考え、
歌集に
収めた形がベストであると判断したとのことです。

 

短歌は、文章を書く上でも大変参考になります。

説明しすぎないこと。簡潔、かつ、読む人の想像に働きかける表現

を心がけること。

伝えたい気持ちが溢れて、言葉が過剰になってしまうこともありま

す。一方、仕事の上では潤いのない文章を書かざるを得ない場面も

あります(私の場合はほとんどかもしれません)。

 

短歌を観賞することは、研ぎ澄まされた言語表現の豊潤さを味わい

ながら、言葉の奥深さに唸らされるとともに、自分の書いた文章
(言
葉)と徹底的に向き合い、何度も修正を重ねることの大切さを
教え
てくれます。

 

 

今朝のお供、

サザンオールスターズの『葡萄』。

忘れたいことばかりの春だから ひねもすサザンオールスターズ

―俵万智

                       (佐々木 大輔)

良質なもの

No.135  平成27年3月2日(月)

 

良いものを長く使う。

 

「良いもの」の定義、というと堅くなってしまいますが、あくまで

も私にとっての基準として、気に入ったデザインのもの(品のある

もの)、つくりが良質なもの、職人さんのこだわりが伝わるものを
「良
いもの」と考えます。

 

たとえば、お酒を飲むとき、良質な器やグラスを使う。

杜氏さんへ敬意を表して。

大切な人へ手紙を書くとき、良質な筆記具を使う。

景品のボールペンで書いてしまっては、相手に気持ちが伝わらない

ような気がして。

ちょっとこだわるだけで、心も豊かになります。

 

若い頃は、新しいものに目移りがして、「質より量」に重きをおき
ちでしたが、現在の愛用品を見てみると、どれも10年近く(あ
いはそれ以上)使用していることに自分でも驚きます。

長期の使用に耐え得るためには、何よりもまずつくりがしっかりし

ていなければなりません。また、メンテナンスをしながらでも使い

続けたいという思い入れも必要です。私の場合、あまりにデザイン

が奇抜すぎるもの、流行を追いすぎたものは、飽きてしまうのも早

い気がします。

長く愛用するためには、購入する時点で納得のいくものを選ぶ審美

眼を養わなければなりません。

 

私が思う良いものとは、けっして「高額なもの」ということではあ

りません。

高額品ではなく「高級品」。

もちろん、高級な品である限り、ある程度高額になるものもありま

す。しかし、そのぶんだけ、頑張って購入したのだから大切にしよ

うという気持ちと、良質であるが故に長期の使用に耐え得るという

その物自体がもつ性能の相乗効果により、より長く愛用できるよう

になります。

 

季節も暖かく春めいてきました。

愛用品に感謝を伝えながらお手入れをするにはよい時期です。

私は、まず、チェロのお手入れから始めることにしましょう。

 

 

今朝のお供、

The Prodigy(イギリスのバンド)の『The Fat of the Land』。

 

(佐々木 大輔)

マーク・ロスコ

No.134  平成27年2月2日(月)

 

最近、マーク・ロスコの画集を手に取ることが多くなりました。

 

ロスコは、生前、もっぱら人間の基本的な感情(悲劇、忘我、運命)

を表現することに関心を寄せ、自分が絵を描くことは「自己表現で

はなく他人に向けたコミュニケーションである」と定義していまし

た。鑑賞者とのコミュニケーションを作品の根幹におくことから、

鑑賞者の内面を映す鏡のような作品と評されることもあるようです。

 

ロスコの作品には、タイトルがついていないもの(『無題』と題さ
たもの)が多いため、「何が描かれている作品か」ということを
推測
する手掛かりがありません。一方で、タイトルが無いことは、
作品
の見方を限定されずに鑑賞できるという利点もあります。

 

海外では、悲劇性が強調されて受けとめられることもあるとのこと

ですが、私の場合、ロスコの作品を観ることで、意識が自己の内な

る深淵へとゆっくりと導かれ、自分を見つめ直すきっかけとなり、

その結果、様々な物事や感情が整理されて心が穏やかになっていく

ことに魅力を感じます。

 

ある本には、「多くの人は、ロスコの作品を右脳で鑑賞しているよ
だ」と書かれていました。

言語や論理をつかさどる左脳と、感覚や感情をつかさどる右脳。

とすれば、ロスコの作品は、日々文章と向き合う仕事をしている私

にとって、理屈から感性へ、仕事脳からプライベート脳へ、スイッ

チを切り替えてくれる効果があるのかもしれません。

 

千葉県佐倉市にある川村記念美術館には、ロスコの『シーグラム壁

画』と呼ばれている作品群のうち、7点が収蔵されています。

『シーグラム壁画』は、もともと、「最高の料理と現代アートをと
に提供する」というコンセプトで創設されたレストランから、ロ
コが一室の装飾を依頼されて作成したものでした。

ところが、レストランの雰囲気に幻滅したロスコが、契約を破棄し

てしまったため、これらの作品群は一旦お蔵入りとなってしまいま

す。

その後、9点がロンドンのテイト・ギャラリー(テイト・モダン)

に寄贈され、1990年には川村記念美術館が7点を購入したこと

により、これらの作品群を鑑賞することができるようになりました

(残りはワシントンDCのナショナル・ギャラリーなどが所蔵)。

テイト・モダンと川村記念美術館では、これらの作品群のために、

ロスコが望んだとおり、ロスコの作品のみを展示した一室を設けて

います。

 

ロスコ作品のみが飾られた空間を持つ美術館は、上記の美術館をあ

わせても、世界でたった4つだけです。

いつかこれらの美術館を巡る旅をしてみたいものです。

 

※本文の情報は、私の所有している海外版の画集や書籍から得たも

のであり、もしも誤りがあるとすれば、その全ては私のつたない語

学力に起因するものであることをお許しください。

 

 

今朝のお供、

SEKAI NO OWARI(日本のバンド)の『Tree』。

久しぶりに現れたヒットチャートを駆け抜ける若いバンドにワクワ

クしています。

青さも感じるけれど、求める音に対してはもっと尖っていけばいい。

 

(佐々木 大輔)

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